2023年 豊中インクルーシブ教育を受けた当事者との交流

 2023年7月10日に、豊中市自立生活センターで活動する障害当事者の上田哲郎さんに3回生の皆さんがお話を伺いました。2023年3月10日には、私個人でも上田さんに生活史についてのインタビューをしております。学生たちは、豊中市のインクルーシブ教育がどのように行われてきたのかを考えてきました。

 上田さんは小学入学時に、豊中市の普通学校に入学しましたが、1年生の秋に1年以上、親元を離れて、施設に入所しながら養護学校に通学した経験をしていました。その後、3年生のときから豊中市の普通学校である東豊台小学校に通うようになりました。親は上田さんを地域の学校に学んでもらいたいと考えていたことが大きかったといいます。母も中学校に歩行に障害のある子がいて、過ごしたことが関係しているのではないかと上田さんは語っていました。3年生のときに、再び普通学校に戻ったときに、音の話をされているのが印象的でした。

 「最初は、泣きじゃくっていました。なんで、泣きじゃくってかっていうと、やっぱりさっき言ってた、がやがや感が、はんぱ。だって、例えばですよ、給食のときの、ことを、思い出します。いろんな、音が、あるじゃないですか。~養護学校ではほぼほぼ、皆無やったんです。」

 小学校低学年時に普通学級に戻ったからこそ、普通学校にも慣れ、社会一般の生活に慣れ、大人になってから自立生活ができたと上田さんは語ります。障害があっても普通学級で学ぶことを原則としている豊中市のインクルーシブ教育のシステムがあったからこそ、上田さんは小学校と中学校を普通学級で過ごすことができたということでした。

 まず、担任教員の考え方にあるといいます。例えば、上田さんが調子が悪いということで、支援学級に行くことを伝えても、担任からは「ゴザ用意しているから、教室の後ろのあそこに敷いて、寝ときなぁって。」と言われたということです。皆と一緒に椅子に座って授業を受けるのではなく、調子が悪い場合にはゴザで寝ていることも可能な対応でした。これは今で言う合理的配慮に相当します。

 次に、教員は必要以上に介入することはなく、生徒同士の関係性を重視し生徒同士で問題を解決するということが自然になされていました。上田さんは「キックベースとか、ドッチボールとかも、俺が、行けば、なんとなく、自然に、上田がおるから、なんか、ルールを考えようかと、言ってくれる子もおったし。それなら、それだって言ってくれる子も、出て来るし。」と語ります。

 さらに、障害児学級担任が普通学級に行くという方法が採用されていたということです。これが豊中方式と呼ばれる支援方法です。上田さんは、「習字のときだったら、時間がかかりそうなときは、いつのまにか、障害児学級の担任の先生が、入ってくれたりとか」したと語ります。

 こうした担任教員の対応、生徒同士の対応、障害児学級担任による支援、という仕組みは長年の豊中市のインクルーシブ教育が蓄積された中で、結果的に作られたシステムであり、文化といえるものでした。学生たちは、善意によるものではなく、システムや文化として作られている豊中市インクルーシブ教育に感銘を受けていました。上田さん、ありがとうございました。

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