2025年 インクルーシブ教育と自立生活~障害当事者の大藪光俊さんと上田哲朗さんへのインタビュー

 2025年6月23日に、鈴木ゼミ3回生の授業において、京都市の日本自立生活センターに勤務する当事者スタッフの大藪光俊さんにインタビューを行いました。大藪さんへのインタビューのテーマは、障害者の自立生活と移動に伴うバリアフリー、また、アメリカ留学の経験についての経験を聞き取ることでした。

 前半は、大藪さんにパワーポイントを使用しながらお話を聞きました。大藪さんは1994年5月25日生まれであり、脊髄性筋萎縮症(SMA) Ⅱ型という確定診断を受けています。小学校入学時に普通学校を希望しましたが、学校から両親のどちらかが毎日学校に付き添って介助することが条件として提示され、結果的に、特別支援学校に行くことになりました。
 その後、天理大学に進学されています。大学では、親の付き添いを求められ戸惑うこともあったそうですが、高校時代の経験を生かして、自ら学内でボランティアを募集し、累計で30~40名の学生の支援を受けることになったとお話されました。大学において様々な社会的障壁がある中で、自ら自主的に学内での学びを支援をする仕組みを作り上げたことに、学生も感銘を受けている様子でした。

 さらに、大藪さんは、2017年にダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業の助成を受けて、アメリカのシカゴの自立生活センターに研修をしています。学生は、ミスタードーナッツを運営する会社が、このような障害者の海外研修を実施していることを知らないことが多く、感銘を受けている様子でした。アメリカ留学経験の中では、リフト付きバスに乗車した際に、バスの前方に手動で簡単にリフトをおろし、車いすでも乗車できる仕組みについて紹介してくださいました。これは、私がカナダに沖縄の自立生活センターイルカと訪問した際にも、当事者が感銘を受けたバスの構造でした。バリアフリーの仕組みは簡単なものほど、利便性が向上するのかもしれません。

 帰国後は、自立生活センターで当事者スタッフとして勤務するようになったこと、近年では、筋ジス病棟からの障害者の退院支援の取り組みを行っていることについてのお話がなされました。最後には、シカゴやオーストリアで撮影した駅構内やバスの映像も流していただき、海外のバリアフリーの状況についてのお話をしてくださいました。 

写真 学生が大藪さんに質問をしている様子

 後半は、学生が授業の中で準備をした質問をしました。例えば、学生からは、特別支援学校が必要だと思うかということについて質問がなされました。これについては、大藪さん自身は、小学校から高校まで特別支援学校に通っていますが、一般の大学に進学した経験があるために、特別支援学校はできれば行かなくてもよい状況が望ましいのではないかと語られました。大学進学の過程で、健常の学生と関わり、また、その後の健常者との関わりの中で、障害者とだけ関わる世界では得られないことを学んだからではないかと考えられました。

 また、日常生活で困っていることがあるかどうかという質問がなされました。大藪さんからは自立生活をする上で、ヘルパーと常時いることに伴いプライバシーや自分の自由な時間がもてないことがあることが大変であり、ただこれは、介助が必要な人であれば必然的に伴う課題なので難しいということが話されました。
 あるいは、障害者が住宅を見つけるのに苦労することが多いこと、バス会社によって運転手の対応が良くないこと、街中の飲食店で入れない場所がまだあること、などが話されました。これらは、解決可能な社会的障壁に相当するため、どのようにしたら問題解決がなされるのかということについて学生さんには今後も考えてもらいたいと思います。

 

 2025年6月30日には、豊中市自立生活センターで相談支援専門員として勤務する障害当事者の上田哲朗さんにインタビューをしました。上田さんから、豊中市のインクルーシブ教育の実際を中心に、その後の学校生活や自立生活の様子について理解することが今回のインタビューの目的でした。

写真:学生が上田さんから話を聞く様子。

 上田さんは1976年4月6日生まれで、49歳です。障害は、脳性麻痺のアテトーゼ型です。彼は、小学校2年間、養護学校に行った後、小学校3年生から豊中市の小学校、中学校に行きました。豊中市では、特別支援学級でも、すべての時間を普通学級で過ごせる仕組みがあったため、1限目から6限目まで、普通学級、つまり、原学級で過ごしていたことが話されました。

 上田さんは、小学校3年生で、地域の学校に転校してから1か月くらい、1日1回は泣きじゃくっていたと話されていました。理由は、うるささに耐えられなかったからだということでした。声の音が、音としてしか聞こえず、給食の時間を考えると、これだけの音があることが分かったと。この話は、上田さんが過去の話をされるときに、繰り返しお話されるストーリーであり、それだけ、養護学校との差異を認識したことが示唆されています。

 この時期に上田さんは補助輪つきの自転車にも乗れており、子どものルールも知れ、みんなと遊べたこと。もし、養護学校であれば、「こんな一緒に育っていなかったら、今の3つは経験できなかったと思う」と話されていました。とりわけ小学校のときに、校区にあるロッテリに皆で行ったときに、同級生がトレイを運ぶと言ってくれたこと。一人で行った際に、お店の人が持っていこうと言ってくれ、ハンバーガーを食べられた経験について話されていました。

 高校は、箕面東高校に行き、高校の打ち上げで、居酒屋の座敷を貸し切って、楽しい飲み会をしたことが話されました。高校の友達が誘ってくれて、楽しい時間を過ごせたということでした。その後、兵庫県の公務員試験を受けに行ったときに、休憩時間に、知らない中年男性に「どこの養護学校なのって、聞かれ」、「その一言が衝撃だった」と話されました。これで、大学に行きたくなり、佐賀県の大学に合格したので、4年間、そこで過ごすことになったということでした。

 上田さんは次のように話します。

 「あのまま、支援学校で育っていたら、地域の関わりは薄れていたと思う。人間関係の作り方というのは、地域の中で育つことで学べる。周りも自分のことを知ってもらえる。辛いこともあるけど、楽しいことが大きいかなぁと思う。小学校のときの友達と、SNSにつながって、20何年ぶりに出会った。岡山の子や千葉の子と会った。
 こんな生き方をしていたから一緒に育つ方がいいと思っていた。支援学校がなくなれば、差別がなくなると思うし。豊中の原学級を広めてほしいと思う。
 障害児教育があっての障害者福祉だと感じる。一緒に育ってなければ分からない。支援担任は黒子でいてほしい。横に支援の先生がいると、支援の先生がいると大丈夫だと思ってしまう。その先生が居眠りしていたら大丈夫かと思う。先生が横にいなかったら気にかけると思う。自分はそのような環境で育ってきたから。遠くで見守っていてほしい、できることはやらせてほしい、失敗することも見守ってほしい、もっと選択させてほしい、なんでもすぐに解決しないでほしい。支援する側が踏ん張らないと自立できないと思います。」

 その後、学生さんとの質疑応答の時間をもちました。例えば、学生さんから、「インクルーシブ教育がなかなか進まない原因はなんですか」という質問がありました。上田さんは、次のように回答していました。

  「いっぱいある。日本には人権教育が教えられていないわけ。障害者権利条約っていうのを日本は批准しているんだけど、批准するっていうことは、守らないといけないこと。でも日本は3年前に、国連から審査を受けて、こことここを変えなさいと勧告が出たにも関わらず、文科省は、国連から言われたことは遺憾ですってはっきり言ったから。根本的に文科省の人も人権教育が遅かった。日本人の人権感覚が成熟していない。」

 上田さんからは、インクルーシブ教育で、健常の人たちとの関わりをつくることができたからこそ、現在の自立生活につながっていることが話されました。
 秋学期は、大藪さんと上田さんのお話をもとに、インクルーシブ教育と自立生活の関係について、学生たちに考えてもらいと思います。大藪さん、上田さん、ありがとうございました。

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